ノー!ハプサ(合祀)

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zoom RSS 朴基哲さんの陳述(2015年3月4日)

<<   作成日時 : 2015/05/10 16:21   >>

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朴基哲さんの陳述(2015年3月4日)


 私はこの裁判の原告の朴基哲と申します。
ヤスクニに合祀されている朴豊鉉(パク・プンヒョン)の息子です。
 父は、いまは朝鮮民主主義人民共和国の地になりましたが、植民地朝鮮の
咸鏡南道高原郡梅坪里(ハムギョンナムドゴウォングンメピョンリ)286番地で、
6男2女の次男として生まれました。 
祖父、祖母をはじめ、家族がともに農作業をしながら暮らしてきましたが、
仕事ができる男たちが何人もいましたので、他の家に比べて生活は厳しくはなかった
ようです。
 1944年、父が日本軍に徴集されたとき、母は私を妊娠していました。
当時徴集された人々が集められた興南(フンナム)で、母と父は最後に別れたと
聞きました。
その後、父から「今、フィリピンにいるが、激しい戦闘に参加する」という手紙が届いて以来、
連絡が途切れました。

 私は祖母が父を産んだ家で生まれました。戸籍の整理をした時に、誤って1943年生と
されましたが、実際には1944年5月6日に生まれました。
この時、すでに父と連絡が途切れた状態だったため、父は私が生まれたことも知らずに
亡くなりました。
 祖母は息子を戦場に送った後、食事も出来ず、床に伏したまま、病気が回復できずに
亡くなりました。「心に怒りがあふれ、眠ることもできず、胸が苦しい病気」、韓国語で言う
「火病(ファッピョン)」にかかって、薬もきかず、亡くなりました。息子が戦争に引っぱられて
行ったため、祖母は病気にかかり亡くなり、私は生まれてからあちこちを転々とし
大変苦労しながら生きてきたことを、父が知ったら、どんな気持ちになっただろうか、と
裁判長に訊ねたいです。

 1945年8月、戦争が終わると祖父は毎日のように駅へ行き、息子が帰ってくることを
待ちました。それは私の家だけのことではありません。
「誰の息子は帰ってくるらしい、誰の夫はいつ戻ってくると連絡がきたそうだ。」
徴用、徴兵で引っぱられて行った息子や夫を待つ人々が毎日駅に行き、新しい情報を
待ちました。
 時間が経っても父が帰ってこないので、母も心の病気が重くなり、体を動かすことさえ
できなくなりました。そのときは家の暮らし向きがうまくいってなかったため、家で母を
看護することはできませんでした。母は病気の治療のため、しかたなく私を残して実家へ
戻りました。私も子どもを持ち育てましたが、そのとき2才の私を婚家に置いて、
病気の体で実家へ戻る母の姿を思うと、その心の痛みと悲しみが伝わってくる思いです。
 母が実家へ戻った後、あちこちの地域に伝染病が広がって、しばらく交通が遮断され、
人々は往来することができませんでした。解放の後、社会的に混乱した状況のなか、
祖父は幼い私を連れて38度線を越え、南へきました。祖父がいくら良く世話をしてくれても、
父母の世話に代わることはできません。孤児のように育ってきた子どものときを思い出すと、
父、母、祖父、祖母、私たちの家族があまりにも哀れで、気の毒であったと思います。

 2003年、私は靖国神社に父の合祀確認を要請し、その回答を受けて始めて、
父の死亡と合祀の事実を正確に知ることが出来ました。日本陸軍歩兵第77連隊、
1945年6月20日にフィリピン群島のミンダナオ島、バターンで戦死したことになっていました。
長い時間が経ちましたが、遅ればせながら、父がどこでどのように亡くなられたのかを
知るようになって幸いだと思っていました。
 しかし、それは私だけではありません。私はいままでの人生の中で、私のように悲しい
事情を胸中に閉じ込めて生きてきた遺族たちに、数え切れないくらい多く会ってきました。
日本が韓国を植民地支配したため、数多くの人々が引っぱられて行って苦しんだ末、
死にました。その一人ひとりが、誰かの父、夫、息子でした。

 日本の遺族たちにはどのようにしたのかよく分かりませんが、私のような韓国人には、
引っぱられて行った家族が後にどうなったのか、誰も教えてくれませんでした。
国を取り戻し、明日は帰ってくるだろうか、明後日には帰ってくるだろうか、毎日毎日
希望を持ち、待ち続けた人々の心を考えてみてください。その苦痛が60年、70年経った
今も続いています。人を引っ張っていって、どうなったのかも知らせることもせず、
勝手に合祀し、過ぎ去った長い歳月を、靖国神社はどう説明しようとするのか、分かりません。
その多くの人々の恨みの気持に対し、どのように応えようとしているのか、分かりません。

 韓国が植民地だった時期、韓国人を苦しめ、殺害した日本軍と警察が靖国神社にいます。
また、父を引っ張っていき、軍人として訓練させ、戦場で死ぬようにさせた人々も靖国神社に
一緒にいます。今私の父は靖国神社で、このような人々と同じ扱いを受けています。

 靖国神社は宗教の自由を守ってくれと叫んでいますが、結局法よりも前に、世の中の常識を
守らなければなりません。宗教の自由を享受するためには、他の人を苦しめてはいけないという
責任を負わなければなりません。法に拠る以前に、その法が作られた理由を考えてみるなら、
非常に明確な問題だと思います。

 私はもう70才を過ぎました。
私に残された願いは、息子として、死ぬ前に、父の名前を靖国神社から消すことです。
長い間、苦痛の中で生きてきた遺族として、父の日本名が靖国神社に残っていること自体が
嫌なのです。これ以上どんな説明が必要なのか、私にはわかりません。
 省みれば日本が戦争を起こして、数百万の大切な命を死に追いやったのに、ヤスクニから
名前を抜くことが、何で難しいのでしょうか。宗教の自由を云々し、名前を消さないのは
言い訳としか思えません。
 私は靖国神社の行為が、どれほど私と私の家族を苦しめてきたのか、ヤスクニがどれほど
非常識なことをしているのかを、説明するためにこの席に立ちました。私は勉強不足ですが、
心の思いを語れば、裁判長にそれが伝えられるだろうと希望を持っています。
 裁判長が常識的な基準で賢明に判断してくださることをお願い致します。

2015年3月4日
朴基哲

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