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zoom RSS 第4回口頭弁論での李明九さんの陳述

<<   作成日時 : 2015/07/29 19:44   >>

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李明九さんの陳述
 

 裁判長様、
 私はこの裁判の原告である李明九(イ・ミョング)です。
靖国に合祀されている李洛鎬(イ・ナッコ)の息子です。
日本によって創氏改名された日本式の姓は松本です。
 私は幼い頃、祖父、祖母、母、父、叔父そして弟と一緒に暮らしていました。
小作として田畑を耕していましたが、秋に穀物を収穫すると、その半分は小作料として地主に払い、
残りも面から職員が出てきて供出されました。
 私が通っていた国民学校は村から2キロメートルほど離れた所にありました。
校長は日本人で、先生たちは韓国人でした。学校では韓国語を使えないようにしました。
平仮名を教えられていた時にひっくり返して書いたといって先生に怒られたことを覚えています。
学校から村に帰ると、友達は皆「ミョング」と呼び、互いに韓国語を使いましたが、学校では
日本語だけを使わなければなりませんでした。出席をとる時も、「まつもとめいく」と呼び、
友達も「まつもと」と呼びました。
 毎朝、運動場に列をなし、朝会をして「皇国臣民の誓詞」を暗唱しました。
とても幼い頃だったので内容は覚えていませんが、運動場に集まって朝会をし、皆で暗唱したことを
記憶しています。教室の廊下には木で作った銃と刀がずらっと立てかけてありました。
私は1年生だったので、授業が終ると家に帰りましたが、4年生から6年生は残ってその銃と刀を
持って毎日毎日軍事訓練を受けました。また、すべての教室に「神棚」がありましたが、そこに向かって
お辞儀をしました。

 父は1943年の冬に動員されました。村には父以外にも青年がいましたが、当時なぜ父だけが
連れて行かれたのかはよく分かりません。
祖母の話によると、何度か面から職員が出てきて連れて行こうとするのを避けて逃げ回ったといいます。
しかし、ずっと隠れて暮らすことができなかったので、結局どうしようもなく連れて行かれたそうです。
もう少しすれば解放となったのに、それを知らず、連れて行かれたそうです。
 その日、祖母は家から4キロほど離れた実家にいました。私は、幼いながら、父を引き止めることが
できる人は祖母しかいないと考え、祖母を呼びに走っていきました。
祖母を連れて戻ってくると、父はすでに去っていませんでした。
父が行ってしまったということを知り、息子まで日本に奪われたと泣き叫ぶ祖母の姿をはっきりと
覚えています。祖母が泣く姿を見ながら、父を引き止めておくことができなかったことがとても後悔され、
胸が痛みました。
 父が連れて行かれた後から、暮らしがさらに厳しくなりました。
祖父と祖母、そして母までも父が徴用されたせいで病気になり、農作業もできませんでした。
叔父はいましたが、障がい者だったので、もともと仕事をすることができませんでした。
働く男性がおらず、田畑を耕すことができなかったのです。そのため、母は私たちを連れて
叔母の家に入りました。

 そして、1945年8月15日は、長い長い植民地支配からわが国の民が解放された嬉しい日です。
名前も日本式に変えなければならず、日本語と文字を強制的に使わなければならないという抑圧から
解放されたのですから、皆どれほど嬉しかったことでしょうか。
 しかし、私の家族は解放の喜びを感じることができませんでした。
日本に強制的に連れて行かれた父が帰ってこなかったからです。
父を待っていた母は、1946年10月3日(陰暦)に亡くなりました。母と私、そして弟がひとつの部屋で
寝ていたのですが、その日に限って夜中に目が覚めました。
母を起こそうと声を掛けましたが、返事がありまんでした。
母は亡くなっていたのです。
何も知らずに寝ていた幼い弟を連れ、叔母のところへ行き、母が亡くなったことを伝えました。
葬式は叔母と村の人たちの手を借りて執り行い、村の前にある山にお墓をつくりました。
そしてすぐに祖父と祖母も日本に奪われたわが子を待ちわびる中で病が悪化し、亡くなりました。
 
 裁判長様、
 私と弟は日本のせいで一朝にして孤児になったのです。
母が亡くなった時、私の歳は9歳、弟は5歳でした。
その後、たった一人の弟も飢え、病気になり、長く患うのを見ながらも、私は弟のために
何もしてやることができませんでした。私たち兄弟は頼るところがなかったのです。
私が幼い弟をきちんと世話してやることができなかったため、結局、幼い弟までもこの世を
去ってしまいました。そのため、この世には私だけが一人残されました。
 今も弟のことを考えるととてもとても胸が痛み、辛いです。
母が亡くなった時、祭祀の膳にお供えしていた果物を食べたいと泣いていた弟の姿を
忘れることができません。
私がこれまで生きながら寂しいと思うたびに、兄として弟に対する責任を果たすことが
できなかったという罪責感で痛む私の心を誰が分かるでしょうか。
私の家族は父が日本に強制的に徴用されてから4年の間に皆死んだのです。

画像

 
 裁判長様、
 私は日本を絶対に許すことができません。
 
 裁判長様、
 私が祖母、祖父、母、幼い弟を皆亡くした時の私の歳は11歳でした。
日本のせいで家族を皆亡くした苦痛と傷を抱え、私は生きなければならないと考えました。
私の家族の血筋を引き継いでいく責任があると感じたからです。
 私は幼い歳で生き延びるために仕事は何でもやりました。故郷を離れ、ソウルに来てからは
練炭工場に住み込み、何でもやりました。
そして私は父が生きて帰ってくると信じたかったため、死亡届も出さず、一生懸命生きました。
そうしているうち、1964年に息子ができてようやく父の死亡届を出しました。
どこで亡くなったのかも知らなかったため、家で亡くなったと届け出ました。
このように苦難の道を歩みながら生きる人生は、ただ私に限られたことではありません。
日本によって父を奪われた遺族たちは皆、父の死を胸に抱え、辛い思いをしながら今まで苦しく生きています。
 
 裁判長様、
 私は父に関する記録を探すため、1997年から被害者団体に参加し、活動してきました。
記録によると、私の父は陸軍軍属として南洋群島のパラオ島で服務し、1945年4月12日に
南洋群島のパラオ島で戦病死しました。
しかし、家族には知らせもしないまま、日本政府は父の名前を靖国に引き渡し、靖国は勝手に合祀しました。

 私の父だけでなく、2万1千人余りの韓国人が靖国に合祀されているといいますが、
韓国人が、解放されてから70年が経った今も日本の名前で日本の地にある靖国に、なぜ
合祀されなければならないのですか。
 
 裁判長様、
 その理由は何ですか。答えて下さい。
 人を強制的に連れて行き、死なせたことも悔しいのに、なぜ日本政府は家族に知らせもせず、
自分勝手に合祀するのですか。
 もともと日本が日本の利益のために引き起こした戦争でした。韓国人は何の関係もない戦争でした。
そのような戦争に父が強制的に連れて行かれなかったなら、祖母と祖父は息子を亡くさず、
母は夫を奪われず、弟も悲惨な死を遂げなかったでしょう。
そのような日本のせいで、私の家族が全員死んだということをもう一度強調しておきたいと思います。
 また、日本政府は日本人にだけ莫大な補償をしながらも、なぜ韓国人を差別するのですか。
そんな対応をしておきながら、なぜ靖国から名前を取り消してほしいという家族の意思を無視し、
合祀を続けているのですか。
 
 裁判長様!
 裁判長様はどう考えますか。裁判長様をはじめ、すべての日本人に心から訊いてみたいと思います。
答えて下さい。
 そもそも韓国人が戦争に連れて行かれたのは、日本が韓国を強制的に併合し、国を奪ったからです。
靖国は、そのように国を奪う時に抵抗する韓国人を虐殺し、そこで死んだ数多くの日本人も
合祀していると聞いています。
 
 裁判長様、
 これはおかしいのではないですか。
 その人たちこそ韓国人を絶望に陥れ、苦痛の中で暮らさざるを得なくさせた当事者たちじゃないのですか。
どうしてそのような人たちと一緒に私の父を、日本のために、「天皇」のために死んだ人として扱うのですか。
 
 裁判長様!
 私は今後どれくらい生きることができるか分かりません。
生きている間に必ずや成し遂げたいことは、ただ一つです。
靖国から私の父の名前を取り消すことです。
私は父が連れて行かれた12月21日(陰暦)に祭祀を行っていました。その後、1970年代から教会に
通い始め、祭祀の代わりにキリスト教のやり方で追悼式を行っています。しかし、靖国神社に父が神として祀られていると考えると、父に申し訳なく、とても辛いです。
子として、日本によって無念な死を遂げた父を安らかな心で追悼したいのです。
 解放されてから70年になりますが、私の父は日本の名前で今も靖国に利用されています。
無念に連れて行かれて死んだ私の父を靖国に閉じ込め、戦争を経験したこともなく、
植民地支配も反省しない、日本の安倍首相と政府の官僚たちは、靖国に参拝しています。
私の父がなぜこのような人たちの参拝を受けなければならないのですか。
これは私の家族を冒涜する行為です。私は靖国から私の父の名前を取り消し、解放させてあげたいのです。
 
 裁判長様、
 私は靖国のせいで私の家族が経験した悲しみと苦痛、悪夢のような時間を思い出したくありません。
父を靖国から解放させてあげ、私もこの苦痛の中から抜け出したいのです。
靖国から私の父の名前を取り消すことができるよう、正しい判決を下してくださいますようお願いいたします。
 
 2015年5月27日
 李明九

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