ノー!ハプサ(合祀)

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zoom RSS 第9回口頭弁論での金煕福(キム・ヒボク)さん陳述

<<   作成日時 : 2016/12/11 11:53   >>

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陳述書
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金煕福(キム・ヒボク)



私はヤスクニに合祀されている、金応斗(創氏名、金村珍佑)の唯ひとりの子である
金煕福(キム・ヒボク)です。
私は今日父の名前をヤスクニから取り消してほしいという、正当な要求をするために
この法廷に立ちました。
私は、いまも父が侵略戦争を起こした戦犯と一緒にヤスクニに合祀されていることを、
到底許すことはできません。そして、家族にも知らせず、父をヤスクニに無断で合祀した、
日本政府とヤスクニの責任を厳重に問い糾します。

父は、1944年5月、日本によって戦場に連れていかれました。
1944年7月、父が徴兵されてから、二ヶ月の後に私は生まれました。
私は父の顔も知らず、「お父さん!」と呼んだこともありません。
父は3男2女の中で末っ子でした。
父は、活発で、義理を大事にする性格の人で商売をしていました。
父の一番目の兄は、植民地朝鮮では暮らすのが大変だったため、日本に稼ぎに行きました。
二番目の兄は、強制動員を避けて、満州へ行っていなかったため、父が祖父母の
面倒を見ました。二番目の兄宛に赤紙が来ましたが、兄がいなかったため、やむを得ず、
父が自分の兄に代わって戦場に連れていかれたのです。
その当時、父は商売をして稼いだお金で、祖父母に若干の土地を残して行きました。
まもなく生まれる子どもの顔も見ることもできず、いつ帰ってこられるかも知れない戦場に、
連れて行かれた父の気持ちを思うと、いまも胸がつまります。その道が最後の道になることを、
誰が知っていたでしょうか?

戦争が終わっても、父は帰ってきませんでした。
若くして一人だけ残された母は、私を育て、祖父母の面倒をみながら一生を過ごしました。
私は、父がいないため、中学校を卒業してからの勉強を断念しなければなりませんでした。
祖父母は、父なしで育った私をかわいそうに思ってくれたので、中学校までは通わせて
くれましたが、生活が大変だったので、「高校に行きたい」という話をとてもすることは
できませんでした。でも、 私は勉強への思いを断ち切れませんでした。
そこで、私は、自力でお金を稼いで高校へ行こうと決心し、ソウルへきました。
昼間は仕事をしてお金を稼ぎ、夜は夜間学校で勉強しました。メッキ工場で働き、
新聞配達、牛乳配達など、なんでもやりました。父がいたなら、このような苦労は
しないだろうと思いながら、涙もたくさん流しました。しかし、昼働き夜勉強しながら
卒業証書を取ることは、容易ではありませんでした。結局、軍隊に入隊した後も勉強を続け、
高校の卒業証書を受けとることができました。父がいないことで、したかった勉強を思うように
できないことが、私には一番の苦痛でした。

1966年に祖母が亡くなった際、弔問に来た隣町の人から父の話を聞きました。
その方は、父と一緒に徴兵で連れていかれた方でした。
父はビルマ戦線で頭部を銃撃されて戦死したという衝撃的な話でした。
そのとき、私ははじめて父の死を実感できました。見慣れない異国の地ビルマ、
遠い戦場で、故郷と子どもを恋しく思い、死んでいった父を思うと、胸が詰まる思いでした。

父の戦死通知書もこなかったため、戸籍には1947年に家で亡くなったことになっていました。
私は父の記録を探すために、遺族会に加入し、活動することになりました。
そして、2001年、はじめて父の具体的な記録を見つけることができました。
その記録には、父が、1945年2月15日、ビルマ戦線で頭部を銃撃されて戦死したと
記録されていました。父と一緒に連れていかれた方の話が、やっと確認されたのです。
私は、職業軍人として勤務し、ベトナム戦争にも参戦したことがあります。
戦場で死んでいく人々もたくさん見ました。その時ごとに、ビルマで銃撃されて死んでいった
父のことを考えました。父を思うたびに、あまりにもくやしく、心が痛くなります。

その後、父がヤスクニに合祀されているという事実を知って、とても腹が立ちました。
ヤスクニは侵略戦争を起こした戦犯が合祀されている侵略神社ではありませんか?
なぜ、私の父が彼らと一緒に合祀されているのでしょうか?
父は天皇のために死んでいった人ではありません。侵略戦争に連れていかれた被害者です。
結婚し、妻の腹中にいる子どもと会う前に、戦場で死んでいくことは、どれほど悲しかっただろうか、
想像してみてください。
私は、父が侵略神社ヤスクニに合祀されていることを、到底許すことはできません。
私は、今からでも直ちにヤスクニから父の名前を取り消すことを求めます。

私の父の祭祀は、毎年2月1日に執り行われます。父の正確な記録を見つける以前であったため、
祭祀をいつ執り行っていいのか分かりませんでした。母から父が亡くなった日を、
あらまし聞いていたので、毎年2月1日に祭祀を執り行っています。
父が戦死した後に送ってきたという遺品を埋めた墓もあります。
毎年父の墓をたずね、草刈りもして、心を込めて祭祀を執り行っています。
何年か前に、父の墓を移葬するとき、古い時計と黒い土が出てきました。
母の墓の隣に並べて安置しました。
母は、結婚してからまだ1年も経たず、夫を日本に奪われました。そのときから祖父母の
面倒を見ながら生きてきました。ひたすら私だけを信じ、一生大変な苦労をし、
1996年に亡くなりました。
若くして日本が起こした戦争によって夫を奪われた母の人生を思うと、涙が出ます。

父がヤスクニに合祀された事実を知ってからは、父の墓地を訪れるたびに申し訳ない
気持ちを禁じ得ません。父が今もヤスクニに閉じ込められていると考えるからです。
私は父の名前をヤスクニから取り戻すことが、子としての当然の道理だと考えています。
そうして初めて、私は父に堂々とお仕えをすることができます。解放になってから
71年が過ぎましたが、私の父はまだ解放されていません。

裁判長!
私はこの法廷でもう一度強く求めます。家族に知らせることもせず、父を無断に合祀した
ヤスクニと日本政府の責任はあまりにも大きいのです。私は到底理解することも、
許すこともできません。ヤスクニと日本政府は、侵略戦争に私の父を連れていき、
無念の死に追い込み、ヤスクニへ無断に合祀したことに対して、遺族たちに
謝罪しなければなりません。侵略戦争を美化する歴史認識を持ったヤスクニに、
戦犯と一緒に合祀されている、父の名前を取り消してほしいという私の要求は、
当然な要求です。国際的人権の観点から見ても、家族の死に対する最終的な権利は、
その遺族にあるということは、極めて常識的なことだと考えます。一日でも早く、
父の名前をヤスクニから取り消すことを、もう一度強く求めます。
そのとき初めて、私は父の墓を堂々と訪れることができます。

2016年10月12日
金煕福


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