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zoom RSS 第11回口頭弁論 崔斗鎔(チェ・ドゥヨン)さんの陳述

<<   作成日時 : 2017/09/06 07:39   >>

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陳述書

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           崔斗鎔(チェ・ドゥヨン)さん


私は靖国神社に合祀されている、崔承鳳(チェ・スンボン、創氏名山本承鳳)の息子である
崔斗鎔(チェ・ドゥヨン)です。
私の父は、日本が起こした侵略戦争に動員され、中国で戦死しました。
私は今日この法廷において、日本の侵略戦争に連れて行かれ、靖国神社に無断で合祀された、
父の名前を一日も早く取り消すことを強く求めます。また、家族にも知らせず、父を靖国神社に
合祀した日本政府と靖国神社の大きな責任を強く問いたいと思います。

父は1944年2月15日、日本軍の軍属として徴用されました。父が戦場へ行くとき6才だった私は、
父のズボンをつかんで泣きました。祖母も、私を背負ったまま涙を流しながら父を送りました。
そのとき、私たちを後にして野原を歩いていく父の後ろ姿を、しばらく眺めて涙を流したことを、
今でも覚えています。私には三才上の姉と二才下の弟がいましたが、二人とも赤ん坊のとき
死亡したので、母と私だけが残りました。泣きながら父にしがみつく幼い息子を後にして、
死ぬかもしれない戦場に行かなければならなかった父を思うと、今でも心が痛いです。

子どもの頃、我が家の近所には裕福な家がありました。その家には広い広場や大きい倉庫があり、
秋になると広場に米がいっぱい積まれていました。日本へ供出として送る米でした。
その家には蓄音機があり、私が父に蓄音機を買ってほしいとねだると、今度買ってあげると
約束したこともあります。父と干潟が広がる海辺へ遊びに行ったことも思い出します。
海草を取りナムルをつくって食べた記憶もあります。私にはとても優しい父でした。
一度、長い刀を持った日本人巡査が伯父を殴るのを見たこともあります。

父を送り出して残された母と私は、伯父の家の農作業の手伝いをしながら生きました。
1945年解放になり、父とともに村から徴用に連れて行かれた人は帰ってきましたが、
父は帰って来ませんでした。戦死通知書もこなかったです。戦場に連れて行かれた人が
故郷に戻ったという話を聞くと、母は直ちにその家を訪ねて父の行方を尋ねたりしました。
結局、解放になってから1、2年くらい経ったとき、母は再婚しました。私は幼かったため、
母について行くことになりました。母は再婚して子どもを産みました。私はその家で
これ以上生活するのが嫌になり、家出をしました。行く所がなくて故郷の平沢(ピョンテク)駅
あたりで物乞いをしながら生きました。あまりにも大変で、みじめでした。

そうするうちに、伯父が私を探しているということを聞き、伯父の家で農作業の手伝いを
しながら生活することになりました。 農作業が忙しい時には学校にも行けませんでした。
農作業が暇なときだけ学校に通い、かろうじて国民学校は卒業できました。
一緒に農作業を手伝った従兄が死んだので、農作業はほとんど私が引き受けました。
父も帰ってこない、母もいない孤独な身でしたが、与えられた仕事だけを熱心にしながら
生きました。身体が痛くなるほど昼夜なしに農作業だけに尽くしました。それでも、父、
母がいないという穴は満たされることはできませんでした。

私は1968年頃に父の消息を初めて聞きました。父と同じ部隊にいて、父の最後を知る人が
いるということを聞きました。その年は父が生きていたなら還暦に当たる年だったので、
韓国の風習どおりお客さんを招いて還暦の祝いを開きました。その場にその人がきて
父の話を聞かせてくれました。その人が負傷した父を病院に連れていったが、
次に訪ねて行った時、父は既に亡くなっていたとのことでした。病院で死んだ人々は、
穴を掘ってまとめて埋葬されますが、その人は父の遺体をお棺に入れて、
日の当たるところに埋めたので、探すことができるはずだと言いました。
1945年7月19日、第181兵たん病院で父はそういうふうに亡くなりました。
私が初めて父の死について知った瞬間でした。あまりにも悲しくて心が痛かったです。
ところで、その人は解放の直後に母に会って父について話したことがあると言いました。
すると母は、生きて帰ってくる人なのになぜそのような話をするのかと信じなかったようです。
母は父が死んだことを絶対に信じたくなかったのです。その話を聞いた時、母はどれほど
悲しくて絶望しただろうかと思うと今でも胸が裂けます。

1973年末か1974年頃、水原(スウォン)税務署に徴用者名簿があるという話を聞いて
訪ねて行きました。名簿には創氏改名された父の名がありました。1945年7月19日、
中国廣西省全県第181兵たん病院で死亡したという父の記録を初めて確認しました。
一月後には解放をむかえて故郷に戻ることができたはずなのに、父は結局遠い異国の
地で死亡したのです。あまりにも悲しくて残念でした。
1974年には遺骨が釜山(プサン)に戻ってくるという話を聞いて、父の遺骨を受け取りに
行きました。ところが、遺骨が入っているとされる箱を開けてみると、人骨ではなく動物の
骨のようなものが何片か入っていました。父を直接埋めたという人の話を聞いた私としては、
とうてい信じることはできませんでした。それは確かに父の遺骨ではありませんでした。
どうしてこのように死んだ後も遺族たちをだますのか、あまりにひどい日本政府に対して
とても腹が立ちました。その時受け取った動物の骨のようなものは焼いて川に撒きました。

私は2010年父が靖国神社に合祀されている事実を初めて知りました。それを初めて知った瞬間、
とうてい理解することができませんでした。日本が侵略戦争を起こして植民地朝鮮から
連れて行った人々を死なせたのに、どうして勝手に家族にも知らせず靖国神社に
合祀することができるのでしょうか。侵略戦争を起こした戦犯たちと私の父が一緒に
合祀されていることを、私はとうてい許すことはできません。そして、国際社会からも
大きな批判を受けているのに、日本の首相や政治家たちはなぜ、靖国神社に参拝を
続けるのか理解できません。
父を日本の侵略戦争に奪われた後、母と私は言葉にできない苦労をしました。
両親がなくて勉強する事ができなかったのが、今まで私の一生の恨(ハン)として残っています。
日本が父を連れて行かなかったら、我が家族も幸せに暮らすことができたはずなのに、
あまりにもくやしいです。日本が起こした戦争のため、父、母、そして私の夢と我が家族の
幸福もすべて奪われてしまいました。

日本は、侵略戦争を起こしてこのように我が家族を不幸に落としたことについて、謝罪し、
責任を負わなければならないでしょう。私は、日本政府と靖国神社が、家族にも知らせず、
くやしく死んでいった父を靖国神社に合祀したことを、とうてい許すことはできません。
日本が起こした侵略戦争に連れて行かれ、遠い他国の地で死んだのもくやしいのに、
いまだに靖国神社に合祀されている父を思うと、あきれるばかりです。また、
今まで遺族に犠牲者の遺骨を、まともに戻さないでいることに対しても、
日本政府は謝罪し、責任を負わなければならないでしょう。日本政府と靖国神社は、
今すぐにでも、私をはじめ遺族たちに自分たちの罪を謝罪し、一日も早く父の名前を
靖国神社から消さなければならないでしょう。私はもう一度父の名前を靖国神社から
取り消すことを強く求めます。

2017年4月25日
崔斗鎔

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