ノー!ハプサ(合祀)

アクセスカウンタ

zoom RSS 第12回口頭弁論 金鎮石(キム・ジンソク)さんの陳述

<<   作成日時 : 2017/09/06 21:13   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

陳述書
画像

          金鎮石(キム・ジンソク)さん



私は國神社に合祀されている、金奎(キム・キュチョル、創氏名金谷泰彰)の娘である
金鎮石(キム・ジンソク)です。
私の父は日本の侵略戦争に動員され、ニューギニアで戦死しました。
今日私はこの法廷において、父を國神社に無断で合祀した、日本政府と國神社の重い責任を
問いたいです。そして、一日も早く國神社から父の名前を取り消すことを強く求めます。
私は戦争が終わり72年も経った今日まで、父が國神社に合祀されていることを、
絶対許すことはできません。

私は1940年2月6日、全羅北道金堤郡金堤邑玉山里406おいて、父である金奎浮ニ
母である金蘭花の子として生まれ、3人家族で幸せに暮らしておりました。
父は郡庁で働いていました。私が3歳になった1942年に、父は日本軍に動員されました。
その当時は日本軍への募集が盛んに行われており、父が勤務していた郡庁にも
員数が割り当てられたそうです。若かった父は選ばれ、父は海軍軍属として動員されました。
私は幼かったので、当時の記憶はあまりありません。日本が起こした戦争のせいで父を奪われ、
父に対する思い出がほとんどないことが、私にとっては一番悔しいことです。父の姿はたった
一枚の写真にしか残されていません。
母の話によると、父はとても優しい人で、公務員として周りの人々から人望の高い人でした。
公務員として出張へ出かけることも多かったのですが、遠い出張先からいつも母の大好きな
リンゴを送ってくれたそうです。夜目が利かない母をいつもおんぶしてくれた優しい父でした。
しかし、父が戦争に動員されたため、私は父を「アボジ!(お父さん)」と呼ぶことが
できなかったことが、子どもの頃には一番悲しかったです。

父が戦争へ連れていかれた後、母と祖父は毎日のように山へ出かけて、父が生きて
帰ってくるようにと祈っていました。その山は虎が出没する、険しくてとても危ない山でしたが、
母と祖父は切実な思いで山を登りました。
しかし、父からは何の便りもなく、給料が送られてくることもありませんでした。父の動員後
6ヶ月目に父の戦死通知書が届きました。それを母が遺骸と一緒に受け取りました。
遺骸といっても、爪、髪の毛だけでした。その遺骸も朝鮮戦争の混乱のさなかに
無くなってしまいました。母が受けた衝撃は余りにも大きく、母は祖父の家に
閉じこもってしまいました。母は食事もとることができず、このまま死んで父の後を
追うんだと思い詰めていました。
日本の敗戦後、父親と一緒に動員され、辛くも生き残って戻った父の同僚達から
父のことを聞くことができました。父と同僚達はニューギニアで労役に従事しましたが、
そこは砂が多く、食べ物がなく、爆撃が激しかったそうです。朝鮮人軍属のほとんどが
飢え死にしたそうですが、父も飢え死にしたとのことでした。父の亡骸は同僚が海辺の
砂浜に埋めてくださったそうです。その話を聞いた母と祖父母の気持ちを考えると、
今でも胸が張り裂ける思いです。遠い異国の戦場で飢え死に追い込まれた父を思うと
涙が止まりません。

父の死亡の知らせに接した母は、その時から商売をして生計を立てていきました。
叔母がソウルに住んでいたことから、母と私はソウルに行くことになりました。
小さい雑貨店を営みながら暮らしていました。しかし、その後すぐに、朝鮮戦争が起こって、
母親と私はまた釜山へ避難しました。釜山への避難以後、母親は風呂敷に物を包んで、
それを頭に載せてあちこち訪れながら、小間物売りをやりはじめました。
それから、ずっと釜山で住みました。
母は私を育てるために色々な商売を手当たりしだいにやりました。小さい子どもの面倒を
見ながら商売で生計を立てていくことは、大変なことだったと思います。いろいろと
苦労を重ねつつ暮らしてきた母は大病を患い、手術を受けたこともありました。
父がいたら、このような辛い暮らしではなかったと思います。
私は、父の顔もわからず、一度たりとも面と向かって「アボジ!」と呼ぶことはできませんでした。
父に対する恋しさ、父がいない悲しみは一言で言えない耐え難い苦痛でありました。
私は「お父さんがなぜいないんだ。」と言って、泣いたことも数えきれません。
父と手をつないで歩く友だちを見ると、それがとてもうらやましかったです。
母は、娘一人だけの世話をするために再婚もせず、心細く暮らしてきました。
私は幼い頃、「アボジ!」と呼びたい気持ちを強く持っていたので、母が再婚してくれればと
思っていました。母が再婚すれば、私も他の子どもたちと同じように父の手をつないで
学校にも通って、普通の暮らしを送ることができると考えていたからです。
しかし、母は一生を一人で終えました。

私も成長して、結婚し、子どもを4人産みました。私には兄妹がいなかったので、
子どもがたくさん欲しく、母と一緒に育児をし、母は孫の成長を楽しんで見守っていました。
その母は、2000年3月に亡くなりました。母を思うと、厳しく辛い暮らしの中でよく私を
育ててくれたと、感謝の気持ちで一杯です。しかし、父との幸せな人生を送ることもできなくて、
一生を父を奪われた悲しみで苦労した母を思うと本当に悲しくて悔しいです。
日本が起こした戦争のせいで、母は一生を苦しみました。

90年代の後半から、母は「太平洋戦争犠牲者遺族会」に加入して、父の記録を
捜すための努力をしてきました。母は父に対する大きい恋しさを見せるように、
一生懸命に遺族会の活動を続けました。1997年、日本の厚生省に父の死亡記録の
取り寄せの依頼をしたところ、父は1942年7月23日、海軍軍属として動員され、
第15設営隊所属としてニューギニアで服務する途中、1943年1月22日にニューギニアの
キルワで亡くなったことが明らかとなりました。母が亡くなった以後は、私が母の代わりに
父のさらなる詳細について、厚生省に調査依頼したところ、2391円の死没給与金が
供託されたことを知りました。父の死を公式に確認した瞬間でした。1914年生まれの父が、
29歳の若い年で、ニューギニアの戦場で戦死したことを思うと、今でも胸が裂けます。
この間、1970年代に、遺族達へ30万ウォンの僅かな慰労金が支給される旨を母の
お兄さんが知らせてくれて、母は慰労金をもらいました。その慰労金は、父親の位牌を
お寺に祭るために使われました。父の祭祀(チェサ)は、毎年旧暦の9月9日に
家で行っていましたが、2000年以降はお寺で行っています。韓国では、他所で
亡くなられた方のチェサを行う日です。

私は、今まで、父に対する恋しさ、父親がいない悲しみを持って、生きてきました。
この思いは耐え難いものでした。母は、若い女手ひとつで、いろいろと苦労を重ねつつ
暮らしてきました。生前の母は「朝鮮人軍属に対する日本政府の謝罪と犠牲者の
名誉回復を実現しなければ、死にきれない。」と口癖のように言っておりましたが、
どれも解決せず、苦労と恨みを抱いたまま目を閉じたのです。
日本は多くの他国の若者を強制的に動員し、犠牲を強いたにもかかわらず、犠牲者の
遺族達にどんな適切な対応もしないなど、大変厚かましい行動をしています。
さらに、日本政府と國神社は、遺族にも知らせず無断で父を國神社に合祀しています。
このことを知った途端に私は強い怒りを感じました。なぜ、そんなところに神として
合祀されているのか、日本人と一緒に合祀されなければならないのか、
とうてい許すことはできません。日本のせいで父は亡くなったのに、日本のせいで
家族が苦しんだのに、なぜ、今でもなお國神社にいなければならないのか、
理解することもできません。
母は仏教徒でしたが、2000年にキリスト教に改宗しました。亡くなられるまで
毎日のように家から遠い教会へ通い、父への祈りをささげました。現在、私は父を
カトリック教の方式で祈っています。父を國神社に勝手に合祀したことと、
キリスト教あるいは、カトリック教の方式で祈ることは相容れません。どのようにして
父の魂を祀るのかについては、遺族に一番の権利があるのではないでしょうか。
ましてや、國神社は日本の戦争を賛美する場所です。私たち韓国人遺族にとっては、
國神社への合祀は到底受け容れがたく、不名誉なことなのです。それも植民地時代に
強いられた創氏改名で父を合祀していることは、私はとうてい許すことはできません。
日本政府と國神社は、今でも遺族たちに謝罪し、責任を果たさなければなりません。
私は、一日でも早く父の名前を國
神社から取り消すことを、強く求めます。父に対する子としての当然の道理を尽くしたいです。

2017年7月4日
金鎮石

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
第12回口頭弁論 金鎮石(キム・ジンソク)さんの陳述 ノー!ハプサ(合祀)/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる