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zoom RSS 第13回口頭弁論 李仁馥(イ・インボク)さんの陳述

<<   作成日時 : 2017/12/17 19:14   >>

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陳述書

私はこの裁判の原告李仁馥(イ・インボク)です。
國に合祀されている李敏求(イ・ミング、創氏名牧山敏求)の一人娘です。
私は、國が父の合祀を取り消すことを強く求めます。
また、國と一体になって父を合祀した日本政府に謝罪を求めます。

父の李敏求は、1921年7月18日生まれで、6人兄妹3男でした。
父が戦争に動員されたとき、私はまだ母のお腹の中にいました。
私は父と直接会ったことがありません。ただ一枚の写真だけが残っています。
祖父の還暦祝いのときに6人兄妹揃って撮った家族写真です。
祖父は、近所の人たちから「家族がたくさんいて、恵まれて、幸せですね。」と
言われていたそうですが、2番目の伯父も父も戦争に動員されました。
2番目の伯父は、父が日本軍に連れて行かれた時期と同じ頃に連れて行かれ、
その後の消息は分からなくなってしまいました。記録によると、
父はニューギニアに連れ行かれたことなどが分かりましたが、2番目の伯父の場合は
何も分かりません。1番目の伯父は、商売のため留守がちで、そのうち連絡が途切れました。
祖父は85歳でなくなったのですが、祖父は、自分が生きているうちに、
長男・次男・三男という息子たちを失ったことになります。祖父の苦しみを思うと
涙が止まりません。
画像

私が生まれる前に父が戦争に連れて行かれたので、母は私を連れて実家で生活しました。
母の実家で暮らすとき、従妹から「あなたの家に帰れ」と言われたときの悲しさを
忘れることはできません。私が8歳になった年、私は再び伯父の家に送られ、
母はその後再婚しました。我が家は、祖父・祖母、伯父・伯母、叔父・叔母、
従兄弟・従兄弟たちなどで、大家族でした。伯父の家は、宗家(本家)で、
農業を営んでおり、米、麦、ジャガイモなどを作っていました。祖父は、寺子屋で
村の子どもたち30人あまりを教えていた長老でして、尊敬される方でした。

2番目の伯父も戦場へ動員され、1番上の伯父は商売のせいで留守がちだったので、
家の中には女と子どもだけが残りました。農業の働き手の男がいなかったので、
生活は大変でした。そのときには、顔も知らない父が恨めしかったです。
しかし、心の中で父を呼びながら父を恋しく思いました。本家なので祭事も
多かったですが、貧しい生活の中でも心を込めて祭事の支度をしたときが、
懐かしくもあります。父がいないので私は家族の中で、いつも孤独でした。
学費を払えず、小学校5年で学校をやめました。私は祖父のように漢字を学び、
書道を習うのが夢でした。しかし、父を日本の起こした戦争に奪われたため、
夢を叶えることができず、そのことが私の心の中に恨(ハン)として残っているだけです。

私は、18歳まで伯父の家で暮らし、23歳で結婚しました。嫁入りした家は、
本屋を営んでおり、裕福な家だと聞いていましたが、私が結婚したときは
とても貧しかったです。結婚の後にも、苦労は続きました。私のできる限り、
すべてのことをしながら子どもたちを育ってきました。どうしても、子どもたちには
苦労をさせたくないと思い、本当に一生懸命に生きてきました。

私は、不幸な自分の人生を運命だと思い、自ら慰めながら生きてきました。
そのうち遅ればせながら、私と同じ境遇の遺族たちと会うことになりました。
遺族たちと出会い、「私1人ではない。私のように生きてきた息子、娘たちが多い。」と
慰められ、遺族会での活動を始めることになりました。父の痕跡を求める過程で、
悲しい歴史によって出会った兄弟、姉妹のような遺族たちと会うのが、
私にとっては大きい力になっています。

父は1944年4月28日にニューギニアのセピック河口で亡くなりました。
死亡通知をもらったことはないと聞いています。遺骨も戻っていません。
1970年代初に韓国政府からの通知で父の死亡を確認しました。そのときまでには、
父が亡くなったのかどうかも分かりませんでした。名前も知らない遠いところで
死んだ父を思うと、昔も今も胸が張り裂ける気持ちです。

私は、父が亡くなったニューギニアに一度は行ってみたいと思っていますが、
とても遠いところなので、なかなか行けません。私はこの世に生まれてから
父の愛を感じたことがありません。父に対する思い出も全くありません。
私は父の写真を見るたびに、胸が張り裂けそうな寂しさに襲われ、いつも憂鬱になります。
父のいない私の人生は、本当に言葉にできないほど苦しくて悲しいものでした。

父が國に合祀されていることをはじめて知ったのは2010年の頃です。
何で父が日本の國に合祀されているのか、理解することができませんでした。
そして、必ず合祀を取り消しさせなければと思いました。國は天皇のために戦って、
死んだ人を「神」として祀るところだと聞きました。そんなところに、父の名前があることを、
とうてい許すことはできません。

父が日本軍に動員されなかったら、家族がバラバラになることはありませんでした。
父が戦争に連れて行かれたために、私は「お父さん」と一度も呼んだこともありません。
父は天皇のために戦ったのではありません。日本に殺されたのです。
しかも、植民地時代に強制的に創氏改名された日本式氏名で合祀されています。
とんでもないことです。絶対に父の名前を取り消さねばなりません。
なんで父が日本人の兵隊やA級戦犯と一体となって日本に神として祀られているのか、
到底許すことはできません。まずは父の名前を取消し、父を解放しなければなりません。
父が日本の名前で國に「神」として合祀されている限り、父は國に囚われているのです。
私は、父の名前を國から完全に消すこと、これが子としての道理・責任を果たすことだと
考えています。

日本が起こした戦争で、大切な命を失われた人々は、愛される息子であり、夫であり、
父でした。私の父は、平和で幸せな家族の中で、祖父の息子であり、母の夫でした。
そして、私に命を与えてくれた父です。しかし、私は父の顔を知りません。
父も私の顔を知りません。しかし、明らかなことは、私が國に合祀された李敏求の
娘であるということです。だから、私は堂々と言います。國から私の父の名前を
取り消せということです。私も父と会える日が近づいてきています。私は、父と会うとき、
恥ずかしくない子として会いたいです。私の生きている限り、この問題を解決するために
取り組んでいくつもりです。國と日本政府は、私に謝罪し、一日も早く父の名前を
取り消すべきです。
もう一度、強く求めます。
裁判長には、正し判決で日本政府と國の重い罪を問い糾して下さることをお願い申し上げます。

2017年11月28日
李仁馥

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