ノー!ハプサ(合祀)

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zoom RSS 第14回口頭弁論での李炳順(イ・ビョンスン)さんの陳述

<<   作成日時 : 2018/04/21 18:56   >>

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陳述書



私は靖国に合祀されている李喜敬(イ・ヒギョン、創氏名李田喜敬)の次女李炳順(イ・ビョンスン)です。
父は日本が起こした侵略戦争に動員され、ニューギニアで戦死しました。
私は父と一度も会ったことがありません。「父さん」と呼んだこともありません。
母が私を妊娠していたとき、父が連れて行かれたためです。
私は、今日この法廷において、戦場で無念にも死んでいった父を、無断で靖国に合祀した
日本政府と靖国の責任を問いたいと思います。
そして、一日も早く靖国から父の名前を取り消すことを強く求めます。
私は、父が今この時間にも、靖国に合祀されていることを、到底許すことはできません。

父は、体格が良くて、頭も良く、誠実な人であったと聞きました。ある日、父は日本の侵略戦争に
動員されました。自身が行かなければ、誰かが行かなければならないということを知って、
やむを得ず連れて行かれたのです。
父は戦場に行く前に、家族のため薪割りをして薪を作り、必ず生きて帰ってくるという意味で、
「この薪がなくなる前には必ず帰ってくる」と言いましたが、もう二度と故郷へ帰って来ることは
出来ませんでした。
そのとき、母は二十四才でした。二才の娘と妊娠中の妻を後にして、死地へ連れて行かれる
父の足取りが、どれほど重かっただろうか思うと、胸が張り裂ける思いです。
また、そのとき父を見送る母の気持ちがどうだっただろうか思うと、涙が止まりません。

父が行った後、ひとりにになった母は、二人の娘を育てるため、大変な苦労をしました。
手先が器用だった母は、針仕事や商売など、生きるために何でもしなければなりませんでした。
結局、母は金を稼ぐために、私たち姉妹を叔父の家に任せて、母の姉がいる春川(チュンチョン)へ
行かなければなりませんでした。そのとき、私は小学校の5年生でした。
母が商売をしてお金を送ってくれましたが、私たち姉妹の生活はとても大変でした。
弁当を作って持っていくような暮らし向きではなかったため、私は中学高校の間、
いつも昼食を抜いていました。

母は私たち姉妹の将来だけを考えて、露店で真冬でも冷たい風に耐えながら商売をしていました。
そんなに苦労をしながらも、母は唯一の希望を捨てませんでした。
それは、いつか父が必ず生きて帰ってくる、という希望でした。
母は父の行方を知るために占いをしてもらっていました。占い師から父が帰ってくるという
日にちを聞いて、迎えに行ったこともありました。しかし、父は帰って来ませんでした。
母はその度にひどく落胆して家に戻ってきましたが、私たち姉妹のことを考えて
再び頑張るほかはありませんでした。

母は、とても貧しい環境の中でも私たち姉妹の教育のために、あらゆる苦労を耐えました。
米を買うことができないほど貧しかったため食事を欠く日が何日もありましたが、
母はご飯を食べられなくても死にはしないから、勉強しなければならないといいました。
このように、母が私たちの教育のため苦労したので、私は大学まで卒業することができ、
姉は高校まで終えることができました。

私は母の苦労に少しでも恩返しするために、苦学して教師になりました。
母はとても喜びました。後に私が母と一緒に暮らしていたときも、母は、父が帰ってくるという
信念を決して捨てませんでした。とめどなく父を待った母は、2007年、90才で亡くなりました。
「お前たちのお父さんと会えないまま逝くので、お父さんが帰ってきたら、
ずっと待ちながら逝った、と伝えてほしい」という言葉を残し、亡くなるときまでも、
母は父を待っていたのでした。生涯苦労の末に亡くなった母を思うと、もっと親孝行をして
幸せにしてあげられなかったのが残念で仕方ありません。日帝強占期に狩りだされないために、
母は十六才で父と結婚しました。父が侵略戦争へ連れて行かれたのは、母が二十四才のときでした。
母の恨(ハン)の多い人生を考えると、胸が裂けるように痛くて涙が止まりません。

私は生涯父と顔をあわせたことがありません。「お父さん」と呼んだこともありません。
子どものころ運動会に父親とともにくる友たちが、とてもうらやましかったです。
カソリックを信じていますが「神様、お父さん!」を呼ぶたびに、私は顔も知らない父を思います。
私は今でも故郷(忠清南道公州市-当時は公州郡-鷄龍面下大里)に行くたびに、
子どもの頃住んでいた家の近所に立ち寄ります。たとえ私が生まれる前だったとしても、
父がこの家で住んでいたのだと思うと、父に対する恋しさで胸がいっぱいになります。

私は父を恋しく思い、記録を探すために努力しました。
そして、2000年に初めて父の死亡記録を確認しました。亡くなった父の記録を見て涙を流し、
一度も会ったことのない父とはじめて会った気がしました。父の人生を考えると、
あまりにも哀れだという想いがするばかりでした。
二十三という若さで、遠い戦場で妻と娘たちを思いながら亡くなった父を思うと、
心が苦しく張り裂けそうです。

ところが、死亡記録をやっと見つけることができたとき、父が靖国に合祀されているという
事実を知りました。私は呆気にとられ、とうてい理解することができませんでした。
父は日本のために戦ったのではありません。なのに、なぜ靖国に合祀されているのでしょうか?
私の父は「英霊」などではありません。日本が起こした侵略戦争に強制的に動員され、
日本に殺されたのです。なのに、どうして、何故、日本政府と靖国は家族にも知らせず、
天皇のために命を投げ出したなどとして、勝手に父を靖国に合祀することができたのでしょうか?
とうてい許すことはできません。戦場で死んだのも悔しいのに、死んでも靖国に
閉じ込められていなければならないということは、決して神様もお許しにならないと思います。
しかも、父は日本の植民地時代に強制された創氏名で合祀されているのです。今もなおです。
朝鮮半島が解放され70年以上も経つのに、父は未だに創氏名で呼ばれていることになります。
父は今でも日本に支配されているのです。
なんという屈辱でしょうか。絶対に許すことはできません。

私は多くのことを望んでいるわけではありません。 靖国に合祀された父の名前を靖国から消し、
私が正々堂々とお祀りしたいだけです。私は、そのときはじめて子としての責任を果たすことが
できるのです。私は退職教員として日本政府に正しく歴史を教えることを要求します。
侵略戦争と植民地支配の歴史を直視し、自分たちの過ちに対して謝罪し、
賠償しなければならないと思います。更に、靖国に父の名前を無断で合祀した日本政府は、
その責任に対して私に謝罪すべきです。

私たち家族は、父を侵略戦争に奪われ、あまりにも苦しみの中で生きなければなりませんでした。
私は父の名誉を回復するために、苦痛を押し切ってこの法廷に立ちました。
私が生きている間に父の名前を靖国から取り消し、あの世ででも父と母が幸せに
出会えることを切に願って、この場に立ちました。私はもう一度強く求めます。
靖国と日本政府は、靖国に無断で合祀した父の名前を取り消し、遺族たちに謝罪すべきであると。


2018年3月20日
李炳順
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